数年前、外国人が温泉で騒ぎ、飲食して、「外国人は入浴禁止」となった温泉がありました。
ちょうどローマ(2世紀)でも、
ルシウスは激怒し、
「蛮族」たる現代ロシア人を相手に、ローマ兵士さながらの大乱闘‼
しかし、大ゲンカから一転、
両者が和解するのは、
よくある「入浴マナーを守ろう」等のイラスト図解入り掲示板を見たからでした。
ルシウスによれば、
日本の入浴マナーは「完璧」であり、
「粗暴な連中とも湯を堪能できた」
「何という達成感」と、
日本の温泉文化にますます魅了されますが、
こうした入浴マナーは
江戸時代にもありました。
『洗湯(せんとう)手引草(てびきぐさ)』(1851)によれば、
「定(さだめ)」として
「喧嘩口論惣(すべ)て物騒敷(ものさわがしき)儀(ぎ)堅(かた)く御無用之事」
など十ヶ条が石榴口に貼ってあった。
五常(ごじょう)の道があり、
仁義礼智信の五つの徳がある
とも書いてある。
まず、湯で身体を温め、
「病を治し草臥(くたびれ)を休(やす)むる」のが、
医術に通じる「仁」の道である。
次に、「桶のお明(あけ)はござりませぬか」と聞き、
「他(ひと)の桶」「留(とめ)桶(おけ)を我儘に」使わず、
空いた桶は戻すのが「義」である。
湯の出入りには
「御免なさい」
「お先へ」
「お寛(ゆる)り」と
一声かけるのが「礼」であり、
熱ければ水をうめ、
ぬるければ湯をうめ、
「背後(せなか)を流しあふ」のが「信」である。
ここの辺(あたり)は
しかし
「銭湯の道は、儒の道」との
冗談交じりで、
肩の凝らない、
くだけた調子が、
銭湯を楽しみに通った
江戸庶民の情緒をよく伝えています。
また、「銭湯ほど人倫への近道(ちかみち)の教えはない。
さらりと無欲の形(なり)ではないか…
産湯(うぶゆ)から死ぬ時の湯灌(ゆかん)まで…
猛き武士(もののふ)も、
湯をかけられても人混みだからと我慢する。
鬼神の刺青を彫るヤクザも遠慮する。
これを銭湯の徳といわずして何であろう」(現代語訳)
これをもう少し敷衍して言えば、
次のようになるでしょうか。
はたして人間は
何を前にして平等いえるのか。
神の前の平等か、
法の下の平等か、
はたまた人倫道徳の平等か。
いや日本ではそうではない。
銭湯の下の平等、
裸の前の平等である、と。
福沢諭吉も、
こうした「湯の下の平等」の影響を受けた一人でした。
「ひとしく八文の銭を払って湯に入り、身に一物もなく丸裸で、なぜ士族は旦那と呼ばれて威張り、平民は貴様と呼ばれて萎縮するのか」(通俗民権論、明治11)。
銭湯の話でした。
それゆえ、福沢の述べた
「天は、人の上に人を造らず」
との名言も、
じつは西欧啓蒙思想というよりも、
「湯の下の平等」といった
慣習的な思想の影響がうかがえ、
それが近代日本の平等思想を根底で支えていた、
と考えられるようです。