doi_iku’s blog

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一夫一婦制👫と大正の御代👪🙌


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歴史のことば劇場③

▼一夫一婦制と大正の御代


不倫騒動が、ワイドショーや週刊誌で

連日大賑わいですが、

動物学の知見によれば、

一夫一婦制とは、

人間社会の大きな特徴であるといわれます。

というのも、サルなど霊長類は、

少数の雄に生殖の機会が限定される(雌の場合もある)

いわゆる乱交社会ですが、

しかしながら、

人間社会は違う。

「生殖機会が平等に与えられる社会が、

最も調和のとれた社会」

であり、

「一夫一婦制社会は

一夫多妻制よりも結束力が強く、

他民族を征服する力をもつ」

といわれます(М・リドレー『徳の起源』)。

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それゆえ、不倫が人間社会でひどく嫌われるのは、

学問的には、

生殖平等という

人間特有の社会原理に反するからだと

一応は説明できるようで、

たとえば、

源氏物語光源氏であっても、

中年になると、自分の妻(女三の宮)に裏切られます。

つまり、あの光源氏でさえ

不倫の制裁を受ける物語の構成ように見えますし、

じっさい当時の平安貴族社会では、

妻妾の区別が明瞭になっており(正妻とは同居し、妾とは別居の形態になる)、

これも一夫一婦制の一類型である

と考えられます(歴史学事典10)。


いわゆる一夫一婦制が、

皇室において厳格になるのは、

大正時代からですが、

当時、大正天皇の正妻である貞明皇后には、

大変な御苦労があった

といわれます(川瀬弘至(ひろゆき)『孤高の国母 貞明皇后』)。

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「結婚の翌日から泣いて暮した」といい、

東宮内儀監督の万里小路(までのこうじ)幸子からは、

「(宮中のしきたりが)お出来にならない様(よう)なら、

妃をお引きなられた方がよい」

とまで叱られた。

ところが、

大正天皇は、この幸子に、

後年、恋歌を贈っています。


鶯(うぐいす)やそゝのかしけむ春寒(はるこご)み

こもりし人のけさはきにけり 

(大正時代)


古今集風のこうした恋歌を見て、

大正天皇は風邪で下がっていた老女官に恋していた、

貞明皇后はさぞ苦しんだであろう

などと考えるのは、

かなり滑稽な誤解です。

というのも、

万葉集以来、和歌は

宴席などの座興の一種でもあり、

皆でそれを唱和するような、

社交上の遊戯や厚誼の表現でした。

それを不倫や密通云々と

深刻かつ大真面目に論じたのは、

戦前の自然主義無粋な国文学者たちでしたが、

現代の歴史学者は、

いぜんとして

大正天皇の夫妻仲は「しっくりいっていない」(古川隆久大正天皇』)

「他の女性に興味を示す『御癖』…」(原武史『皇后考』)

などと考えがちです。

けれども、

大正天皇の元首夫妻としての仲睦まじい「魅力的」なイメージは、

当時のマスコミ報道などによって

一般に確立されていました(F・R・ディキンソン『大正天皇』)。

また

皇后ご自身も、

「幸子にこれまでに育てゝ貰つた…恩は忘れることは出来ない」

と周囲に語っており、

宮中の伝統を誰よりも尊重するようになった

といわれています(川瀬)。

また、丸谷才一によれば、

戦後、國學院の老教授たちは、

大正天皇の書は、

ここ何代かで一番いい、

歌も非常にいいと言い、

たとえ、丸谷が、何か「故障のあった方では…」といい出しても、

それは「あんまり頭が良過ぎたからと考えればいいんだよ」

といって斥けたといいます。


大正天皇は、

天皇として影が薄いなどといわれますが、

しかし現実はまったく違ったようです。

「世界の五大国」となる

二十世紀初頭の日本の近代化の

躍進を象徴しただけでなく、

一夫一婦制という

太古から現代にいたる

理想的で、人間的な家族像を実現しており、

またそれは歴史的な王朝文化とも

深い部分では同調していました。

さらに、大正天皇は、

ご自身の婚礼や夫婦関係のみならず、

大礼や大喪などの重要行事も、

史上初めて近代的かつ伝統的に設定されたのであり、

それらは皇室と国民、そして伝統と近代との間に、

大きな一体感や親和性を与えました。

したがって、

大正時代とは、

一般的なイメージとは異なり、

伝統と現在との「地平の融合」(ガダマー)によって、

その「地平」が拡張され、

それが現代社会にまでつづく、

より一層高いレベルでの普遍性がうまれた、

「大いなる御代」であった

と考えられるようです。

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