歴史のことば劇場61
と批判したと報じられました。
ロシアが資本主義の最高段階のはずはないから、ショルツは彼らとはまったく異なる論理に立って国連で演説したようですが、
競争制度の下では「いつも何か仕事をし、注意を怠らず、精力を集中しなければ生きながらえない」
戦争や対外冒険主義は「厄介な妨げ」でしかなく「生活の意味をこわし…『正しい』仕事からの逸脱」となる。
反対に、自由貿易が支配すれば「どの階級も武力的領土拡張に関心をもたない」し、「どの国の人も商品も、あたかも外国が自国領かのように自由に出入りでき…どの国も外国の原料や食糧を…自国の領土内のように容易に入手できる」
実際、資本主義の下で帝国主義が栄えたように見えるのは「隔世遺伝」の結果である。近代ドイツの帝国主義も「資本主義以前」の制度や心理的慣習の産物であり、国家による重商主義的・軍事的産業化が主な原因である。
そしてシュンペーターは次の一句で自説を結びます(1919)。
「私はただ“死せるもの、常に生けるものを動かす”という千古の真理を、一つの重要な事例について証明しようとしただけである」
帝国主義の戦争とは、シュンペーターからすれば(おそらくはショルツも)、
資本主義自体ではなく、「資本主義以前」からの制度や心理慣行、さらにはマルクス主義による誤謬の結果である。それらが「隔世遺伝」としての帝国主義の“死せる亡霊”を蘇らせた。
思えば、現代中国が唱える、日本は侵略国家という歴史認識も、起源的には1939年に毛沢東らが作成したパンフレット『中国革命と中国共産党』に始まります。アヘン戦争や清仏戦争と並べて日清戦争も「侵略戦争」とし、今も台湾や尖閣列島は奪われたとの侵略史観に立っている。
それゆえ、現今でも「戦争」か「平和」か、全体主義か自由主義かを分けるのは、いぜん過去からの歴史認識であり、それが「資本主義文明」による自由と繁栄、そのための支援の輪を広げるのか、それとも「資本主義以前」の帝国主義による侵略行動にいたるのかの分岐点ではないのか。
本来の資本主義にもとづく「自由と繁栄」は、それ自体が「隔世遺伝」から来る体制の根幹を揺さぶっています。
それは「死せる亡霊」に取り憑かれた権威主義には、常に脅威であり、危険である。対外冒険主義や侵略行動を止めることはできない、いや軍事行動を止めるのは、それこそ自滅であり、自殺行為でしかないと考えるだろう。
なぜなら「死せる亡霊」は、資本主義の合理性の光によって、雲散霧消され、消し去られてしまう、それゆえ、彼らは非合理の戦争や侵略を決して諦めないし、そもそも止めることができないのではないでしょうか。